40代から前を向くために

もうひとつのプロフィール

今のパートナー(ボス)に出逢うまでは、本当に底辺な私でした。

最初に書いたプロフィールは、どちらかといえば表向きで
今までの人生の中でも、自分の中でまだマシな部分を書いていました。

人は、きっと誰でも表と裏があるとは思いますが
今回は、裏面なプロフィールを書いていこうと思います。

夜逃げした幼少期

ハッキリと思い出せるのが、幼稚園の頃からで
家族構成は、その頃は父と母とお兄(おにい)と私の4人家族でした。

父親の仕事は板前で、長野県にあった小さなホテルの和食のお店の板長さん。

そのホテルの道路を挟んだ向かい側に部屋を借りて住んでいたのですが
その部屋は、いかにも貧乏家庭の部屋ですと言わんばかりの6畳と4畳の2間に
狭い台所とトイレは外に出で行かないとなかった共同のボットン便所

もちろん、お風呂なんてついてなくて歩いて片道30分ぐらいの所にあった銭湯に行ってました。

父が板長のホテルの和食のお店を母も手伝っており、よく夫婦喧嘩をしていて
まだ口喧嘩だけなら良かったのですが、父は暴力的で今でいうDVな父親でした。

さすがに、私やお兄までには暴力は無かったけど
狭い部屋だけに、しょっちゅう怒鳴り声や母を殴ってる音

星一徹ばりにコタツを投げ飛ばし、コタツ台に置いてたお気に入りの湯呑みは割られ
その破片が私の寝ている側に落ちていたので寝ぼけながら触ってしまい

人差し指を切って痛かった・・・そんな悲しかったことを今でも思い出します。

母が大けがした時もあって、多分ビンか何かで頭を殴られたと思うのですが
頭を7針も縫ったこともありました。

母も、そんな父に嫌気がさしたのでしょう・・・

ある日の夜中、寝ていた私達をたたき起こし
急にここを出で行くからと荷物をまとめる暇もなく車に乗せられ夜逃げをしたのです。

母の転落人生

私達は、訳も分からず車に乗せれ夜逃げしたので
宝物だったバイキンクンがたくさん入ったポシェットを
持ってこれなかったのが子供心にショックでした。

夜逃げした先は、母のお世話になった知り合いがいた愛知県。
そして、なぜか父と一緒に働いていた板前の見習いの20代の男性と共に夜逃げしてきたのです。

当時は、もちろん大人の事情なんて知るはずもなく

私達は、一緒に夜逃げした若いお兄さんと一緒に暮らし始めたのですが
当時、母はアラフォーだったので年が離れていたからか長続きせず
母は捨てられ、若いお兄さんは同年代の女性と結婚してしまいました。

そこから、母は女手ひとつで私達を養うために工場勤めをしていたのですが
生活が苦しかったので、お兄だけ母の知り合いに預けられ
私とお兄は離ればなれになって暮らしました。

母は、工場ではあまり稼げなかったのか辞めてしまい
スナックに働き出し夜中に帰ってくるので、私は夜いつも独りぼっちで過ごす毎日
もちろん朝に起きるはずもなく寝てるので、学校行くときもひとり寂しく登校する日々でした。

「いってらっしゃい」「おかえり」が聞きたかった日々

普通の家庭なら、あるであろう当たり前の光景
私には、そんな些細なことさえも憧れました。

学校行くときも、朝ご飯なんてないし
もちろん、「いってらっしゃい」もあるわけもなく

学校から帰ってきても、まだ母は寝ていて「おかえり」さえも言ってもらえなかったです。

友だちと、どっちが先に女優みたいに本当に涙が流せるか?こんなゲームをしたことがあって
それぞれ悲しいこと思ったら涙が出るはずと、感傷的になって涙の流し合いをしました。

涙を流した後に、何を思ってみんなは泣けてきたの?って聞いたら

友だちは、「お母さんが亡くなったら嫌だと思ったら悲しくなってきて・・・」って言ってたけど

私は、「いつも、おかえりって言ってもらえたら・・・」と思って泣けてきました。

この時点で、やっぱり普通の家庭の人とは感性が違うんだなと思ったのを印象深く覚えています。

もともと、男を見る目がない母はろくでもない男と付き合うようになり
男を取っかえ引っかえしては、その度に「お父さんと呼びなさい」と言われ

思春期だった私は、もの凄く嫌悪感をおぼえ、何もかもが嫌になり不登校になりました。

不登校になった中学3年生

学校に行っても、友達だと思っていた子に急に冷たくされて
後で近所の同級生に聞いた話によると、どうやら友達だと思っていた子は親に

「あんな家庭の子と仲良くするんじゃありません」と言われたらしく

それから、口も聞いてもらえず無視されました。

どうせ私なんて、世間体のない、世間から見下される家庭なんだ・・・と思い知らされたのです。

一部の男子生徒にも、「汚い」とか「気持ち悪い」と避けられて
おとなしくて根暗な私は言い返せるはずもなく、心が泣くばかり

学校に行っても面白くない・・・

母はあんなんだし・・・

思春期だった私は、何もかもが嫌になり不登校になりました。

高校受験の大事な時期だったけど、担任にも見放され
結局、高校受験の話もなく、ただ卒業式だけ出て終わった中学生活でした。

フリーターで働きはじめた15歳

頑張って勉強すれば、普通の公立の高校ぐらいは入れたとは思いますが
母子家庭で貧乏だったので少しでも家計の足しにするため、
中学校卒業してから私はすぐに友達が紹介してくれた定食屋さんに働き始めました。

その定食屋さんは、安くて美味しかったので
地元では人気のお店で忙しく、中休みはあったけど夜遅くまで働きました。

働いてた定食屋さんは、まかないが出ていたのでご飯に困ることはなかったです。
忙しすぎて疲れて帰るので、家には寝に帰るだけって感じでした。

当時、時給は540円で1ヶ月間朝から晩まで働いて約8万円ぐらいしかなく
母にお給料の全額を渡しておりましたが、年頃な私はオシャレもしたいし、お小遣いも欲しかったので
私のお給料だったけど2万円だけ私にくださいと母に大泣きして訴えたこともあります。

お兄も最悪な人生

お兄は、私が中学生のころ預けられてた知り合いの人から戻ってきて
また、私と母と一緒に住み始めました。

お兄は定時制の学校に行ってたけど、辞めてしまったので高校中退となり
まともに高卒すらいないという本当にダメダメな底辺レベルの家族。

お兄はヤンキーとかでは無かったけど、若くしてデキちゃった結婚したので
案の定、すぐ離婚してしまいました。

その後、別れた奧さんのお父さんが自殺してしまって、
その原因はお兄のせいだからと意味わからず憎まれて、
更にあなたの子供はいらないとも言われ、

お兄も「子供は俺が面倒みるわ」と啖呵きったにも関わらず

何も言わず私と母に子供を置いて、こつぜんと居なくなりました。

甥っ子を施設に入れたのは私の母親だった

私が甥っ子の母親がわりとなり育てていたけど
色々あって、私がいないときに母が甥っ子を施設に入れてしまったのです。

私は、どうしても施設に入れたことが許せなくて母とは喧嘩になり
意地でも甥っ子を施設から出してあげたくて出来ることからやってみたけど、
でも一筋縄ではいかなくて・・・

両親に捨てられた甥っ子を施設から連れ出した話

一度、施設に入ったら実の母親ではないので、かなり苦労しましたが
なんとか甥っ子を施設から出してあげることができました。

そんな甥っ子も、今は30代になり子供が3人もいる父親になりました。
甥っ子も、お兄のことが反面教師になっているので
子供は大事に育てて暖かい家庭を作っています。

ですが、やはりお兄の血筋なので甥っ子も高校中退だし
職場も転々としてるみたいで、金銭面はダメな底辺なレベルの家庭です。

結局、私も男を見る目がなかった

母は、関西の人と再婚しました。
なので、今は私も甥っ子も関西に住んでいます。

母は、相変わらず男を見る目がなく
結局、この関西で再婚した人も最初は羽振りも良かったけど
後々、お金が底をつき母に借金までさせていました。

借金は、過払いで何とかチャラに出来たけど老後のお金も貯めてるはずもなく
70代になった今も、いつもお金ないと言いまくっています。

私も、母の血筋なので男を見る目がなく
32歳で結婚した旦那さんは8歳も年下の男性。

この旦那さんも働くのが苦手で、パチンコ、スロット好き。
子供がまだ小さいから早く帰ってきて欲しいのに、仕事が終わっても仕事仲間と遊んでは
なかなか家に帰ってこない人でした。

私も、たくさん悪いところはあったけど
色々あって、このまま一緒にいても無理だと思い離婚しました。

離婚後も、子供のために月1回のペースで会ってはいますが
元旦那は30代後半になった今でも職を転々として手取り18万ぐらいしかないと言ってるし
きっと、これからも変わらず情けないままでいくのでしょう。

今となっては、離婚して早くに見切りつけて良かったかなぁと思っています。

最後に:人生いつチャンスがあるか分からない

底辺なレベルの人間は、やはり周りも同じレベルしかいなかった。

でも、人生って何があるか?分からないものですね。

大事なときの決断や選択、何気ない日々も
すべての偶然が重なりあって、今の私がいるんだって・・・

そして、卑屈にならず頑張っていたら
年商6億円も稼いでるハイレベルな男性に出逢えて見初めてもらえました。

こんな私でも、40歳すぎてから素敵なパートナーを見つけられたので
他の方は、きっと、もっとチャンスがあると思います。

そのチャンスを逃さず生かせれるように
もう歳だからと諦めて女を捨てずに、いつまでも魅力的な女でいるためにも

自分に磨きをかけて美活する生活を心がけていきましょう!

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